プロフィール

『ただやす』ってどんな人?一緒にマーケティングを学ぼう!

人生の過酷さを知り、乗り越えて順風満帆の人生から38歳
一文無しになった

『山あり谷あり』の言葉が合うのは私の人生のこと。

 

38歳ドン底の中、親友に救われ覚醒する

これが私の『3つ目最後のターニングポイント』となる。

 

私の人生にはさらに2つのターニングポイントがあります!

 

こんにちは!ただやすです
今回、私がどういった人生を歩んできたのかをご紹介します!

幼少期・小学生(生きる強さと不安な日々)

私は、千葉の一般的な家庭に生まれました。

自営業で真面目な父親と、人に愛される優しい母親。

兄弟は『年子の同級生』(顔は似てないが学年が一緒)の兄貴と3つ下の弟。

父親は父親の兄弟3人で化粧品会社を経営していて

千葉市民であれば名の知れてる化粧品店だったこともあり、
一般的な世帯年収よりは若干裕福だったと思います。

そんな恵まれた私は小学校に入ると同時に野球を始め、
野球だけやっていればいいと勉強は一切していなかったおかげで成績は下の下

それでも楽しい日々が流れていたのでこれが一生続くと思っていました。

しかし小学5年生ぐらいから段々雲行きがあやしくなります。

 

小学5年になってすぐ、私はちょっとした事がきっかけでクラス女子の

いじめ対象になる。最終的にクラスのみんなからいじめの対象に、

昨日まで遊んでいた仲良い男子友達からもいじめられました。

 

物は毎日なくなり、机の落書き、無視、、、
思い出すと悲しくなるからこの辺までで。

皆さんが聞いたことあるようなイジメは全て経験したと思います。

★この時、人生1つ目のターニングポイントが訪れます。

小5担任の先生は長谷部先生という方でした。

毎回長谷部先生が気を遣って助けてくれていましたが、

イジメはすぐにはなくなませんでした。

小5も終わりに近づいた時に、

長谷部先生に言われた事は、

『物が無くなったり、嫌なことは自分の口でちゃんと嫌だ!返してくれ!と
いった方がいいよ!我慢したら苦しくなるから!』

『だから勇気を出して自分の口から皆んなに行ってみよう!』

帰りの挨拶の時間で勇気を出して

『物を返して!いじめないで!』といったのを覚えています。

この日をさかえにイジメはなくなりました。

 

自分は負けず嫌いだったので、

いじめられてても学校は休まず通い続けました。

その結果、『真の強さ=粘り強さ・勇気」を手に入れました。

 

小学6年になったときにはいじめはなくなったのですが、家族に異変が起き始めます。

弟、母親、兄貴の順番で重い病気にかかる。

幸い、兄貴は一回の手術で回復するも弟、母親は過酷な病院生活が始まります。

弟はペルテス病という珍しい病気で、将来は歩けなくなると聞かされていました。

また、母親は脳腫瘍が見つかりいつどうなるか分からないと聞かされていました。

兄貴の病名はわからないのですが骨髄に菌が入ってしまい、もし脳に流れたら普通に
会話できなくなると言われてました。

何もなく元気なのは父親と私だけです。

この時、近くで父親を見ていて感じたのはいざって時のお金は必要だと感じました。

小さいながら、私は父親のように、将来家庭を守れるぐらい、
稼げるようになろう。と誓います。

 

この時に少しでも父親の力になりたいと努力した結果

『真の優しさ・料理を覚える・気遣い』を手に入れました。

 

中学生(日本一のセカンドプレーヤー)

『甚だ素晴らしい成績を上げた3年間』

中学に入ってからは兄貴と一緒で野球に没頭します。

私はセカンドポジション、兄貴はショートポジションです。

兄貴は幼稚園の頃から始めていて、野球の上手さは千葉県で兄は名が知れるほどでした。

私は同級生ではあったのですが早生まれだったこともあり一回り大きい兄貴には

敵いませんでした。

中学では学校の部活動ではなくクラブチーム(リトルシニア(全国約1650チーム)
=中学から硬球を使う)に入りより高いレベルでやっていました。

私は兄貴には一度も敵わないで悔しい思いをしていました。

正直どこに行っても兄と比較される日々、

その比較されることが本当に嫌だったのを覚えています。

この時リトルシニアの監督がそんな自分を見て言ってくれた言葉。

『野球に限らず、上手くいかなくても、『なんでもやり続けること』が大事だぞ』

この言葉を聞いた時に自分自身で何かが吹っ切れました。

それからと言うもの、兄貴がどうではなく

自分が楽しめているか、自分は一生懸命やれているか

自分を俯瞰して考えられるようになりました。

結果、中学最後の大会でチームは全国準優勝し、

個人成績はその全国大会セカンドポジションで日本1番の

セカンドプレーヤーに選出されました!

ちなみに当たり前のことのように兄はショートで選ばれてます

兄弟での獲得は初めてだったと思います。

 

この時に得たのは

『俯瞰して考える事・やり続ける事・諦めない強さ』を手に入れました。

 

高校(挫折を味わったことで知れた事)

中学では輝く成績でしたが高校から谷に向かい始めます。

兄貴と常に比較されてきたのが本当に嫌だった私は兄貴とは別の高校に

行くことにしました。

千葉県の高校野球では有名な市立船橋高校に入った兄貴、

私は家から10分のところにある若松高校に行くことにしました。

この時、市船は野球で甲子園に2年連続で行くなど
華々しいほどの成績を上げています!

兄も2回甲子園出場、3年目はキャプテンを任されるほどでした。

一方の私は兄貴と別々の高校でも常に比較され続けることは変わらず、

むしろ昔以上に比較されていました

全て野球をやっているからだと思い始めて大好きだった野球も
真剣にやれていませんでした。

その一生懸命やれなかったことは人生で一番の後悔でもあります。

高校3年振り返って思ったことは兄貴は兄弟であって
最高のライバルでもあったことです。

そうなんです。

良いことばかり手に入れるわけではないんです。

 

この時に得たのは

『後悔・挫折・逃げること』を手に入れてしまいした。

一生懸命にやるから良いものが手に入ることを知れました。

 

専門学校(2回目のどん底)

『またどん底に落とされたのがこの時代』

パソコンが世の中に広まり始めていたので今後は絶対にパソコンは
使えるようにしておかないといけないと思い
船橋情報ビジネス専門学校に通うことにしました。

高校の親友と一緒だったので覚えるのは大変だけど楽しい日々が
始まると胸を膨らませていました。

しかし、そんな思いも半年で終わります。

毎日のように私の実家に遊びに来ていた親友、

普段、私の部屋は実家の2階にあり親友が来る前に玄関の鍵を開けて

2階で遊ぶことが普通でした。

この日も何も変わらずに遊びに来ていて、遊び終わったら2階でお別れを告げて

少し経ったら家の鍵を閉めることが普通ですが、
この時は別の用事があり鍵をしてめ外に出かけに行きました。

 

数時間たった後、親から電話が鳴り

出てみると

「今どこで何をしている!』と怒鳴り声。

私は訳が分からず『今〇〇だよ!どうしたの?』と聞くと

親が貯めていた貯金箱がないとのこと!

全く身に覚えがなく『ドロボーが入ったの!?』

と思っていました。

急いで帰ると家は荒らされた形跡もありません。

この日に来たのは親友だけ。。

 

 

モヤモヤしたまま1週間が経った時に親友にお金取った事を聞いてみると

『取った!』とのことでした。

訳が分からずただ大泣きしたことだけを覚えています。

当時お付き合いをしていた彼女に慰めてもらっていたのですが

この1週間後にはこの彼女が浮気をします。理由はお金を持ってるとのこと

私は人を信じられなくなり学校もほとんど行かなくなります。

これが2回目のどん底です。

 

それでも私は決断力を手に入れることが出来ました。

 

20歳~28歳(人生を変えた7年間)

『20歳から人生の歯車はいい方へ進み出します!』

地元の仲間に助けにより立ち直ることができて、社会人になったものの、

私は海外留学に憧れを持つようになっていました。

大きな理由は、憧れの子がカナダに留学したことがキッカケです。

私自身、誰も私を知らない土地に行って新しいことに
チャレンジしてみたかったのだと思います。

この思いが強く会社を辞めて留学を決意します!

英語はもちろん勉強なんかしていないのでhaveさえ読めない。

留学直前に地元の友達に本気で『listen』ってなに?って聞いてました。

留学場所はオーストラリアのパース(西海岸)です。

(7年間の経路はパースは3年間滞在し、その後はアデレード4年間、
シドニー3ヶ月と転々としました。)

それでも日本で決断力・勇気・やり続ける力を手にしていた私は

留学半年間で日常英会話はできるぐらい上達しました

(話せても書く、読むが出来ませんでした。)

毎日が出会いと別れの繰り返し、色々な知識、色々な経験をしました。

ビジネスを考え始めたのはパースに滞在している時です。

この時に、色々な起業家さんとお会いすることがあり

自分の知らない世界の話を聞くことが出来たことで
自分自身で何か出来ないかを考え始めました。

アデレードでは親友と言えるぐらい仲良くなった日本人の友がいます。

後の『ターニングポイント3』に出てくる人物です。

 

海外生活で『コミニケーション・親友』を手に入れました。

 

帰国する前に社畜にはなりたくないとは思っていたけど当時の私は

サラリーマンで働かないといけないと思い込んでいました。

 

29歳~32歳(計算して見える世界を学ぶ)

日本に帰国した私は大手カフェチェーン店で働きます。

入社して早々3ヶ月目で私は2店舗同時の店長に就任します

基本、放置されていたので今まで日本では一切勉強はしてこなかった
私にはいきなり店長は本当に苦労しました。

どのように計算して発注していいのか全く分からなかったし、

どうすれば店舗の状況を理解するのか、人とを指導していく方法、

言ってしまえば、キリがないぐらい。

それでも私は他店舗の店長に計算の仕方を聞きに行ったりして

少しずつ学び1年後にはある程度は分かるようになりました。

4年間働いたのですが、うっすら計算をして先が見えた時に

すごく興奮した覚えがあります。

 

実績は1店舗では当初全国450店舗中売上順位200位後半だったのを

16位まで上げました。

2店舗目は3年連続カード販売使用実績全国1位をキープしました。

この頃から自分自身でお店を出したいと思うようになります。

 

33歳~37歳(営業売上実績全国2位)

カフェでは給与が少なかったので稼げる会社に転職した。

内容はケーブルテレビ・電話・NETの訪問販売です。

初めて5ヶ月間全く売り上げを作れなかった私は上長から

『来月売上上げなかったら辞めてもらうぞ!』

と言われた私は、悔しくてたまりませんでした。

その言われた日から1週間後に私は初めて売上を上げ始めます。

さらに2ヶ月後には売上実績全国2位まで上り詰めました

 

38歳(人生のピークとどん底)

お金を貯めた(2000万円)私はお店を出すために起業します

当たって砕けろ精神だけで生きてきた私はこの時、人生一番のどん底を
見ることを知らずに『何とかなる』だけで生きていました。

出したお店は串カツ屋です。

数ヶ月後には大分雲行きが怪しくなりました

今までは商品があったから自分は売ることが出来たのだと強く感じました。

崩れ始めてからどのように建て直していけばいいんかが分からずに

日々終わりを迎える事を感じながら店に向かっていたと思います。

この時にマーケティングが出来ていたらと勉強を始めました。
ですが立て直すことはできず1年も経たずに店を閉める選択をしました。

自分でビジネスを始める際に『何とかなる』精神だけでは何ともならないです。

 

もし、このとき、

WEBで自由に集客が出来たら、自由に売上を作ることが出来たら、私の選択肢の幅はもっと広かったし、あそこまで飲食に固執せずに済んだはず。

あそこまで自分を毎日追い込んで、活動をし、生活費を圧迫して借金を作ることもなかったはず。

WEBビジネスの方法をリーズナブルに教えてくれる人がいたら、もっと救われていたはず。

だから、WEBマーケティングのスキルを、会社員・今の生活に限界を感じている人に、届けたい。

 

39歳(救われた人生)

1年以内で2000万を失ったことで自信・お金・やる気を全て

失い、鬱になり、人と話すことも嫌になりました。

今なら言えるのですが自ら命を断つことも考えていました!

そんな中で、オーストラリアで知り合った親友から連絡が入り

会うことになりました。

惨めな自分を見せたくない気持ちでしたが、ある程度の事情を話すと

物販をやってみないかと誘われます。

★これが、3つ目人生のターニングポイントになります。

物販は一切やったことがなかったのですが、

マーケティングを独学で学んでいたこともありますが

一番は親友が丁寧にサポートしてくれたおかげですんなり売上を上げられ

月60万稼げれるようになりました。

この稼げたお金を全てコンサルを受ける費用にし

自分を磨く時間を作ることが出来ました。

山あり谷ありの人生になりたくない人はWEBマーケティングを覚えるといいです。

 

自分のように色々経験値を上げても思ったように上手くいかないのは

自分自身のマーケティングが出来ていないからだと思います。

マーケティングが出来ることでビジネスで困ることはなくなります。

 

このように強く思ったのでこのブログを作ることにしました。

これから何が起きても乗り越え、今以上に先に先に進み続けて行きますので、

お付き合い頂けると嬉しいです(⌒▽⌒)

私はこのような方とつながりたいと思っています

是非、『コンセプト』も確認していただければ嬉しいです。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。